赤穂浪士って有名だけど、一体何をしたの?
大石蔵之介の家臣達四七士が敵討をした話ですよね?σ(∵`)?
分かりやすく見ていきましょう♬
赤穂浪士
昔々、時は元禄(1700年を過ぎた頃)。将軍徳川綱吉←(生類憐れみの例で有名な徳川5代将軍)
播州赤穂の藩主浅野内匠頭(31歳)と、高家(江戸幕府の職名で老中の支配下にあった)の吉良上野介義央(61歳)がおりました。
当時、参勤交代で江戸と赤穂を行来していた浅野内匠頭は将軍の行事の世話役を命じられました。
そこで上司のような存在の吉良上野介に理不尽なイジメを受け続けました。
ついに!我慢の限界がきた浅野内匠頭は、江戸城松の大廊下で吉良上野介に切かかります。
「殿中でござる!」
有名なこのセリフ。当時、江戸城内で抜刀は厳禁です。少しでも刀を抜こうものなら切腹です。
「おいおい!城内やで!一旦落ち着け!」って感じですね〜( ºΔº 😉
この時、吉良上野介は眉間と背中に怪我をおったが傷は浅かった。
本来なら、喧嘩両成敗で何かしらお咎めがあるのだが、吉良は大した取り調べもなく無罪放免。城内で抜刀した浅野内匠頭はもちろん切腹となりました。
その後、浅野内匠頭の家臣、大石内蔵助率いるAKR47(赤穂浪士四十七士)が君主の無念を晴らそうと誓いをたてます。
まもなく赤穂浅野家はおとり潰し、家臣達はバラバラになります。
世間では仇討ちをするに違いないと噂がたちます。
大石内蔵助は吉良上野介を油断させる為に遊び暮らし、他の家臣達も町人や浪人に姿を変えひっそり暮らしていました。
江戸城松の大廊下事件から1年10ヶ月が過ぎ世間の噂も消え、吉良上野介が油断した頃、大石内蔵助は家臣達を江戸のそば屋に集め討ち入りの準備をしました。
そして12月14日の夜、
ついに吉良邸に討ち入り吉良上野介を成敗した。
というお話。
その後、AKR47(赤穂浪士四十七士)は幕府の命により切腹となった。
浅野内匠頭の家来達四十七士は忠義を守り抜いた立派な武士として歌舞伎や小説で描かれ続けているのです!
大石神社・赤穂城
赤穂の大石神社にはその赤穂浪士四十七士が出迎えてくれます。
本殿をぐるり回ると四十七士それぞれの討ち入りまえの話が絵馬で描かれています!一人一人にドラマがあって見応えあります。↓
🅿️大石神社の入口横に無料駐車場があります
神社を参拝した後はすぐ隣にある赤穂城へ
建造物は残っていませんが、のんびり城内の庭園をお散歩…ゆったりとした時間が楽しめます- ̗̀ ( ˶’ᵕ’˶) ̖́-
本丸庭園の展望台からは本丸の跡が見渡せます。もう少し早ければ桜も綺麗だっただろうな〜( ・ᴗ・ )
赤穂の街は建物も低層でゆったりとした街並みで大好きな街です(*^^*)
御崎公園
御崎公園にある大石内蔵助像↓↓↓
ここ御崎公園は海が一望できて桜もたくさん咲くのでお花見に最高です!
赤穂のお花見スポットですね〜(*^^*)
無料駐車場があるので時間を気にせずゆっくり辺りを探索したり景色を楽しんだりできるおすすめスポットです!
その他、赤穂のスイーツ、ランチ情報の記事あります!
関連↓↓↓から見れるのでぜひ見てね(*˙︶˙*)ノ゙
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